ちょうど一年前、3月31日月曜日。

昨夜は、一睡も出来なかった。
昨日は朝早くのフライトでそれなりに疲れていたはずなのに、それでも一睡も出来なかったのは、一晩中、恐怖と迷惑の紙一重を味わうことになってしまったからだった。
昨日。わたし達は朝の4時前から行動していたこともあって、21時過ぎにはベッドの中にいた。
部屋数の多い大きなホテルだから、まだまだ廊下を行き交う人達の声も聞こえるし、他の部屋からは若者達がふざけ合っている声も聞こえてきた。
「安宿だし、仕方ないなぁ…」などと思い、強く目を瞑っていると、暫くした頃に隣室から男の奇声が上がる。
初めは他の部屋と同じように、その男も酒にでも酔っているのかな…と思った。けれど、それは違っていた。
奇声が上がる間隔は次第に狭くなって、男は部屋の中で暴れ出すようになる。独りでいるのだろうが、延々と続く奇声。よくは聞き取れないけれど、どうやら英語ではないみたい。
そして。男は奇声を上げたまま部屋の外へと飛び出して、廊下で暴れ始めるようになった。扉を蹴り開けたり、廊下の何かが大きな音を立てて壊れていくのがわかる。
こちらの部屋の扉まで蹴り開けられたらどうしよう…
フロントが近ければ助けを呼べたのかもしれない。けど、ここはフロントから一番離れた場所にある部屋だった。電話もないし、外へ出られるわけでもないし、なすすべがなかった。
止まることのない奇声と暴力的に鳴り響く音が怖くて、わたしは横で眠るシゲルさんにぴったりと体を寄せながら呼吸を合わせる。
シゲルさんは「最後にすごいクジを引き当てたねぇ…」と苦笑いをして見せて、わたしを安心させようと努めていた。
あと少しで収まるかもしれない…そんなふうに願いながら、結局、朝を迎える。
陽も昇り静かになったことを確認して、わたし達はそわそわとしながら部屋の外へと出た。廊下は昨夜の残骸が散らばって、何か無残な事件の後のようになっている。
ふたりで急ぎ足にフロントまで行き、シゲルさんが昨夜の状況を説明。
どうやら男は既にチェックアウトしていて、もう何も心配はいらないとのこと。いや…チェックアウトさせられたのかもしれない。
なんとなくこのドライな対応は、日本ではあり得ないかもしれないな…などと思った。
さて。気を取り直して、アムステルダムへ。
宿の無料シャトルバスに乗り込んでスキポール駅まで行き、一人8.5ユーロ(往復)の切符を買ってアムステルダムへと向かう(近距離やのに、ちょっと高い…)。



眠れなかったこともあって妙に朝早くから行動したので、アムステルダムの街にはまだ観光客の姿が少なかった。
アムステルダム中央駅を出て、ダム広場を抜け、真っ直ぐ南に下って、まずは朝9時から開いているシンゲルの花市場を目指す。
(わたしはずっと“シゲルの花市場”と呼んでいた)
今日はこの旅で観光の出来る最後の一日。
昨夜は何だか恐ろしい体験をしてしまったけれど、気持ちをまっさらにして、とにかくうんと歩き回ることにする。



ムント塔が見えてくると、シンゲルの花市場に到着。



花市場は思っていた以上ににぎわいを見せていて、ただ歩いているだけでも楽しかった。
市場の片側には土産物屋も軒を連ね、思う存分試食の楽しめる素敵なチーズ専門店で夢のような円形のチーズを幾つか購入。



シゲルさんは「僕、盆栽買って帰ろうかな」とか言う。
えっ…日本でも売ってるよ?というか、日本のものだよ…?
……………。



心躍る陳列。



殆ど晴れてくれなかったアイスランドとは真逆に、オランダ滞在中はずっと太陽を近くに感じていられた。
此処彼処が光に満ちていて、歩けば歩くほど身体もぽかぽかとし、いつの間にか身に付けていた上着は片腕にポジションを固めている。
昨日の朝まで、いつも身体の芯に寒さを抱えて歩みを進める足もどこかよそよそしかったのに、春の中を歩いていくというのはこんなにものびのびとした優雅さに溢れているのだな。
アイスランドにいた頃はすっかり忘れていたけれど、自転車大国であるオランダでの街の歩き方もしっかりと覚えていた。これは満江先生のおかげ。
けれど、他の観光客が何も知らずに自転車道を歩いていたりすると、凄いスピードでやってくるチャリンコライダー達にベラボーに怒鳴られていて、何とも言えない気持ちに。
ソンナニドナラナクテモ…




シンゲルの花市場から更に南下して、オランダ最大規模の露店市場でもあるアルバート・カイプ市場(Albert Cuypmarkt)を目指す。
アルバート・カイプ市場はデルフトのマルクト市場よりもずっと地元色が強くて、どことなーく微妙さと絶妙さが相まった…なんとも複雑な雰囲気。
えっ、そんなのまで露店に並べちゃうんだ…。といったものも、ちらり。
時間が早いせいもあるのか、毎日やっているからなのか…人も疎らで、露店じゃなければちょっと逃げ出したい感じ(大袈裟…)。



鰻好きのシゲルさんは、オランダへ来ても鰻チェックを欠かさず。
写真の手前に並んでいるのは、オランダではどの魚屋でも購入することの出来る鰻の薫製(gerookte paling) 。
「せっかくだから買ってみる?」とかけた言葉に、「僕、養殖は認めない」と相変わらずの返答(と言いながらも、養殖鰻も美味しくいただきます)。
後ろに並んでいるのは、酢漬けにされたものなのかな。
日本と変わらず、お値段もそこそこ。



わたしはやっぱり八百屋などの生活に近い露店を見ているのが楽しくて、満江先生のお家にお世話になっていた時や自炊していたアイスランドとは違って、もう何も食材を買うことは出来ないけれど八百屋の周りをうろうろ。
アイスランド滞在中にはフレッシュな野菜に飢えていたこともあってか、目に映る野菜の鮮やかさにそわそわとしてしまう。
アイスランドにもフレッシュな野菜は沢山売られています)
そして、思い出すのはキャベツのこと。
日本のスーパーマーケットに並んでいるキャベツといえば、冬キャベツ、春キャベツ、グリーンボールくらいなのに、こちらの市場ではとにかく種類が豊富。
日本でも見かけることはあっても、そのお値段になかなか手の出ない芽キャベツサボイキャベツも三角キャベツも手頃なお値段で並んでいる。
今度オランダへ来る時は、沢山の食材を使って色々な料理をしてみたい…という密かな夢が出来た。



途中。甘い匂いに誘われてちゃっかり買ってしまったのが、オランダの伝統的なお菓子ポッフェルチェ。
小麦粉とそば粉の生地で焼かれたたこ焼きのような形をしたポッフェルチェは、外側はカリッとしていて口当たりが軽く、中はふわふわ。
ポッフェルチェの上にはホワイトチョコレートと粉砂糖が何のためらいもなくたっぷりとまぶしてあって、とっても甘いのだけれど、とっても美味しい!
これもどうやらパンケーキの一種なのだそう。
アイスランドで食べたピョンヌキョクール、オランダのパンネンクーケンとポッフェルチェ…旅のパンケーキに外れなし。




市場を端から端まで歩き、ちょうど時間もお昼時。
そして。お昼ごはんに選んだのは、フライドポテト!
旅の前半で食べたオランダのフライドポテトに感激し、わたしはアイスランドのホットドッグ同様にオランダのフライドポテトの虜になってしまって、アイスランド滞在中から「オランダ戻ったら、絶対ポテト食べんねん」と異常なポテト熱を胸に秘めてきた。
普段、日本に暮らしていて、街で手軽に食べられるフライドポテトやホットドッグに美味しさを見出すことは殆どないものなのに、旅に出ると味覚は変わってしまうものなのかな…いやいや、この美味しさは格段に違う…はず。
フライドポテトといえば塩味にケチャップかマヨネーズのソースが添えられるイメージだけれど、オランダにはソースのバリエーションが幾つかあって、中でも気に入って食べていたのが甘いマヨネーズとインドネシア風(?)のピーナッツソースがかかったスペシャルなやつ!
更にトッピングに生玉ねぎのみじん切りがのっていて、フライドポテトのサクサクほくほく感とシャキシャキ歯ごたえがの生玉ねぎが二つのソースで…
あぁ、もうっ!思い出したら食べたくなってきた!!!
お腹がいっぱいにならないように(他にも何か見つけたら、いつだって食べられる態勢にしておく作戦)、いつも一番小さなサイズを一つだけ注文して、ふたりで半分こにして食べる(一番大きなサイズは、恐ろしく大盛り)。




午後。午前は市場巡りという、わたしの行きたい所に付き合ってもらったので、今度はシゲルさんのリクエストに応えて幾つかのギャラリーを廻ることに。
けれど、どこも月曜が休廊日のようで、入り口の扉や窓越しに中を伺って「これ、監視カメラとかに映っていたらやばいね…」などと言いながら、まじまじと展示されている作品を眺める。
行けたらいいなと思っていたアムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)も月曜が休館日だったので、結局、午後もわたしが行きたいと思っていたお店を巡って土産物を買ったりすることに。
以前に訪れた時は肌寒さを感じていたけれど、ミュージアム広場では多くの人達が薄着でひなたぼっこ。
(シゲルさん、なんだか不機嫌…)



木々は芽吹いて、運河の水は温かみを含み、街も春の力に満ち溢れている。
シゲルさんはオシャレなセレクトショップで鞄を買っちゃったりして、「すぐに使いますから」とか言ってタグを切ってもらったりして、すぐにご機嫌。
わたしはオシャレなお店で買い物とか出来ないので、いつも見ているだけ。



「BOEKiE WOEKiE」は、オランダに来る前から気になっていたショップ。
アーティストブックや若手作家のZINEを取り扱っている専門店。
お店に入ると大きな身体をゆっくりと揺らしながら歩く猫が出迎えてくれ、シゲルさんの足元をスリスリ(ちっ…何故いつも動物達はシゲルさんを選ぶのか)。そして、ヘッドホンをしたままの店員さんに驚きながらも笑顔で挨拶。
誰かのアトリエにお邪魔したような気分になる店内をじっくり見ていて驚いたのは、日本人アーティストのブックも種類豊富だったこと。
わたしは色々な本の装丁を見ているのが好きなので、大型書店ではなくて、こうした小さな書店を訪れるのが好き。
このお店はまた来たいな。



こちらは別のお店で。
置き物かと思いきや、突然動き出した猫。





結局ポッフェルチェとフライドポテト以外に何も食べていなかったので、さすがにぺこっ腹となり、わたし達は満江先生に教えていただいたトルキーピッツァが食べられるお店を目指した。
観光客の往来も少ない地域なので不安を感じてもおかしくないのだけれど、二度目の訪問で、わたし達は威勢のいい兄さんの接客にどこか安心を感じていた。
兄さん以外のお店の人達は英語やオランダ語が出来ないのか、お客さんに声をかけられても兄さんを呼び接客以外の仕事に黙々と精を出す。
店内はどこかトルコの匂いがする。トルコへは行ったことなどないけれど。
前回はシゲルさんと半分こして食べたトルキーピッツァを、今日はひとりで一本ずつ。ゆっくりと時間が過ぎていくことを惜しむように食べた。
舌とお腹に残っていくこの味を、次に味わえるのはいつだろう。



いったいどのくらいの距離を歩いたかはわからない。
それでも長い長い距離をトラムも使わずに歩いて、とても充実した疲れを感じていた。
アイスランドは車で移動せざるを得なかったけれど、こうして歩く旅がいつも刺激をくれるように思う。
いつの間にか太陽の光は随分と西に傾いて、わたしは暗くなる前に宿に戻りたかったのでアムステルダム中央駅までの道を急いだ。
宿へと戻り、フロントの横にある自動販売機で不味いコーヒーを買って、ロビーの椅子に腰掛けて歩き疲れた身体の力を抜いていく。
何かのイベントでやって来たのだろうか。ロビーには大勢のキッズが大人達のチェックインの手続きが終わるのを待っていた。
ああ…神様。
奇声を上げる声や暴力的な音に、この子達が怖い思いなどしなくてよかった。
「不安も驚きもない
 不安も驚きもない
 静かな 静かな人生を送りたい」
頭の中で、この曲が静かに流れている。
驚きの連続だった三月を終えて、明日わたし達は日本へ向けて飛び立つ。



*「アイスランド・トラベルブック」の販売について*
もう少しお時間をいただきたいと思っています。
販売できるようになりましたら、また改めて告知させていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。