朝目が覚めると、部屋中にユリが香っている。
色彩の少ない朝の部屋に佇むそれは、寡黙で力強く、美しかった。
美しいものには、いつでも少し物怖じしてしまう。
人が美しいものが好きだという事を、知っているからだろうか。
美しいものを失ってしまったとき、人はその面影を大切に想い続ける事を知ってしまったからだろうか。
まだ何も失った事のなかったわたしが、その事を一緒に背負う事は出来ないだろうかと無理な事を願っていた。
劇団青年団の舞台「別れの唄」は、
“同じ悲しみを悲しんでいるはずなのに、なぜ、私たちは分かり合えないのだろう
同じ悲しみを悲しんでいるはずなのに、なぜ私たちの悲しみ方は、こんなに違うのだろう”
と呼びかける。
劇中には“別れの唄”など歌う場面は出てこないのだが、それでも劇を観終えた後には、どこか誰にも教えない大好きな歌を静かに口ずさんだような、なんとも言えない心持ちになった。
この気持ちは、小津安二郎の遺作「秋刀魚の味」にもどこか似ている。
好きなものには、いつでも余韻が残る。
失うという事も、そういう事なのだろうか。
願ってはみたものの、逃げ出したのはなぜなのか。考えてみても、今はただぽかんと穴が開いたような想いになる。
この事はわかる日がくるまで、大事にとっておく事にする。
布団から起き上がり窓を開けると、部屋には光が満ちる。
ぼんやりと、それでも確かに一日が始まろうとする。
本当に大切なものは、ずっと変わらない事を知った。もう、それでも充分だ。
ユリが朝の光に照らされている。先程より更にきめが細かく純白に見え、それは花嫁のように見えた。