今日、帰って来ると、22時を回っている。
いつの間にこんなにも時間が過ぎていたのだろう、と思う。
最近、腕時計をつける事をやめた。
携帯電話もあまり触る事がないので、時間がわからない。
感覚は大きく変わっているとは思うが、きっと幼い頃もこんなふうにして自分の時間を感じとっていたのではないだろうか。
帰れる場所をもっている、そういった時間の感覚。
さすがに行動範囲はうちまで駆けて帰れる距離ではなくなったが、確かに「そろそろ、うちに帰ろう」と、体がそう思う。
昨日、ずっと握っていた手のひらは、体温が高くてしっとりとしていた。骨なんてないんじゃないかと思うくらいふわふわで、わたしの手のひらの中にすっぽりと隠れてしまう。
わたしの名前を楽しそうに何度も呼んでみせて、目が合うと、驚く程にはしゃぎだす。それだけで、胸が熱くなる。
会う度に、一枚、頬を寄せて写真を撮る事にしている。
それを何枚もためて、いつかアルバムをつくりたい。
一昨日、父が母に宛てたラブレターを読む。
まだ、わたしがこの世にうまれていない頃に書かれた手紙。
10円の官製はがき。昭和50年9月18日の消印。わたしが知らない家の住所。懐かしいような真新しいような父の字。
なくなってしまったと思うと、世界は急に輝きを増してくる。
けれど、何もなくなっていない事も、知っている。
父は、母へどのくらいの手紙を書いたのだろう。
それらの手紙を読む、まだ若かった母の姿をそっと想い描く。
時間は容赦なく経過し、いつまでも昔のままではいられない。
それでも、命の音が、まだここに生きている。
手紙の最後は、こうしめくくられる。
「最愛なる我が妻、私の人生への協力ありがとう」
ここ数日…
そうだった、こんな気持ちだった。誰かを好きになるという事は。