気がつけば、『お豆』ももう四ヶ月遅れ…

夜が開ける前に、宿をチェックアウトする。
「部屋の鍵はポストに入れておいてね」とのことだったので、今日はもうおソノさんとマネージャーさんには会わない。
わたし達は車のトランクに荷物を詰め込んだ後、駐車場から見えるおソノさんの事務所&自宅の窓に一礼をした。
今日はアークレイリからレイキャヴィーク方面へと、また長い時間をかけて戻る日だ。
その前に。昨夜、シゲルさんが提案してくれて、「ゴーザフォスだけは見に行こう」ということになった。
ゴーザフォスは「神(神々)の滝」という意味を持つ、アイスランドでも壮観な滝のひとつ(アイスランド国内には、本当に多くの滝がある)。
出発の前に改めて道路交通状況を確認してみると、ミーヴァトン湖からエイイルススタジル方面へ向かう東の一号線はまだ通行止めのままだったけれど、ゴーザフォスへ行くまでの道はもう除雪が始まっていた。
わたしは昨日のアイスバーンドライブが怖かったので(とても楽しかったけれど)、少しそわそわとしていたけれど、やっぱりアイスランド北部でのメインをゴーザフォスとミーヴァトンに置いていたので(あの有名な青い巨大露天温泉ブルーラグーンへは行かず、ミーヴァトン版ブルーラグーンへ行くはずだった)、「無理はしない」ということで車を走らせてみることにする。
それでも、そちら方面へ向かう車など一台もいなかった。



アークレイリは北極圏に程近い街なので、もちろんとても寒い。
けれど、アークレイリからゴーザフォスへと向かう途中、フィヨルド沿いの道を抜けて山道へ入ると、その寒さの質が一変したように思えた。
それは「寒い」という感覚を超えてしまった、身体が「痛い」と感じてしまうようなもの。次第に、息をするのもしんどくなってしまう。
そうだ。これはいつぞ体験した、『西堀榮三郎記念館 探検の殿堂』のマイナス25度の南極体験に似ているぞ。
遠目に走るシゲルさんが、なんだかグーニーズみたいだ(やったことはないけれど…)。。。



シゲルさんは何かの儀式のように峠を一つ越える毎に煙草休憩をとるので、それに付き合い、わたしも車の外へと出る。
扉を開けた瞬間に強風に煽られて、足元がふらつく。
アイスランドは風の強い国だ。この吹き荒れている風で、体感温度は一体どのくらいのものなのだろう。マイナス20度くらいか…いや、マイナス30度くらいか…いやいや、実はマイナス1〜2度くらいだったりして。。。
それぞれ、ハードシェルの中にダウンジャケットを着用して、ダウンジャケットの中にはフリース、フリースの中にはカットソーやトレーナー、インナーには保温性のあるものを着込んでいて(ボトムも同じような感じ)、これまで特別に寒さに臆することはなかったけれど(それでも寒いけれど…)、この時ばかりは身体がついていけなくなるのを感じた。
ふたり共に限界を超えてしまって、ちょっと笑いが出てきてしまう。不思議。。。



ゴーザフォスは一号線沿いにある滝なので、迷うことはないだろうと安心していた。
おまけにアイスランドの一号線沿いには、必ず名所の標識が立て掛けられていて、それを目印に旅を進めて行ける。
けれど。この数日の猛吹雪で、一面真っ白になってしまった風景に、その標識を見つけることも難しくなっていた。
シゲルさんは雪道の運転に集中してくれているので、わたしはそれを見落とさないように「見落としてしまえば、あの世へ行き…」と、必死で目配りを利かせる。
そんな中。目にしたものはゴーザフォスの標識ではなく、わたし達の旅の中継地N1(ガソリンスタンド)の看板だった。
「こんな所にもー!」と、何故だかシゲルさんと無性にテンションが上がる。。。
N1の駐車場に車を止めて周辺を歩いてみると、併設されていたカフェの建物に「Everyday」と営業案内が出ていた。だけど、こんな日でも店を開けるものなのかしら…(時間が早かったので、確認は出来ず)。



ガソリンスタンドの脇に流れていた川を見て、ふたりして「ゴーザフォス?」と思ったけれど、何かが違う…(けど、雪が積もり過ぎていて、もう何がなんだかわからない…)。
ふたりして周辺をうろうろしていると(実際には、寒くて、常に小走っている)、目の前を一台の大きな除雪車が通りかかった。
その瞬間に、シゲルさんとわたしの気持ちが一気に華やぐ。
ひねくれ者のわたしが除雪車を運転していたならば、目の前を小走っている観光客に「こんなに危ない道を、慣れていない観光客が来たりして…」とうんざりしたため息を出したりするかもしれないのに、イケメン風の逞しいその兄さんは「君達のために、じゃんじゃん雪をどけてあげるよ!」と言わんばかりにナイスな笑顔でサイズアップを見せてくれたのだった。
それはほんのひと時でしかなかったのに、とても鮮やかに、色濃く、わたし達の心に染み込んでいく。
雪の野原に、ぱあっと一輪の花が咲くみたいに。
アークレイリやゴーザフォスを思い返すと、その寒さの先に、やっぱりあたたかな人々の記憶がある。



川を覗き込んでみると、幾つもの大きな氷のかたまりが流れていく。
ゴボゴボと音を立て、見る者を吸い込んでしまうよう。



N1から少し離れた場所に、ゴーザフォスはあった。
この滝の落差はそれ程でもないのだけれど、凍りついた氷柱の間を猛々しい勢いで水が流れ落ちていく。
滝と風との音がひとつになり、自分がジゲルさんに呼びかける声も聞き取れない。そして、次第に怖くなっていった。
自然の持つ力強さに、ただただ圧倒されてしまう。そういった類いの怖さだった。
けれど、目の前に広がっている風景は、どこまでも美しい。
わたしはその美しさに何度でも写真を撮りたいと思ったのに、きっとこの胸に宿った想いを写真には残すことが出来ない…と感じて、ゴーザフォスを前に一度しかシャッターを切ることが出来なかった。
(そんなわたしの写真では、ゴーザフォスの凄さは伝えられず…)



本当はカメラも持たずに、風景の前で暫くじっとしていたいのだけれど、寒さがそれを許さなかった。
わたし達は感動の興奮と寒さからくる身体の痛みとを繰り返し、僅か数分で車に駆け戻って、凍りついてしまったみたいな身体をエアコンの温風でほぐしていく。
こんなにも寒い世界を、生涯でいったいどのくらい体験するのだろう。
そういえば。『コールド・フィーバー』(1995年/監督:フリドリック・トール・フリドリクソン Friðrik Þór Friðriksson)という、永瀬正敏さんが主演を務めるアイスランド映画があるのだけれど、それはアイスランドで初めて真冬に撮影された作品だという。
この世の果てのような雪景色の中で、永瀬正敏さんは決して暖かそうには見えないビジネスコート姿で演技をしていた。
冷えきった身体でそのことを思い出し、なんだか無性にトイレに行きたくなってしまう…
ゴーザフォスからアークレイリの街に戻るには、一時間くらいかかるというのに。。。



凍りついたカーブの道を下る。
スリップしたら、さようなら…



三時間程で、再びアークレイリの街に戻って来た。
N1へ立ち寄って、お手洗いを借り、温かい飲み物を買う。
シゲルさんは大仕事を終える毎に、どっとした安堵の表情を浮かべて、暫く放心状態となった。まだ、これからが今日の本番ではあるのだけれど…。
N1でもプロレスラーのような店員さんの優しさに触れ、後ろ髪を引かれる想いでアークレイリの街を後にした。



アークレイリの街を出ると、すぐに峠越えが始まる。
来た時には、全く目にすることが出来なかった風景。
岩山とそこに積もる雪との表情が面白くて、ずっと窓外の風景に見とれてしまった。
雪山以外には何もないのだけれど、けれど、それがとても美しい。



白い白い道が、どこまでも伸びる。
車道の両脇に壁のように積み上げられた除雪の雪、美しいラインを描きながら遠くも近くもわからなくなる山々…



一つ峠を越えると、すぐに天候が変わった。
さっきまで晴れ間を見せていた空が、あっという間に灰色に変わり吹雪が起きる。
わたし達は言葉をなくして、また身体に力が入っていた。
そして。その峠を越えると、晴れ間が戻る…
繰り返し。





雪山しか見えない風景に、突然かわいらしいものを見た。
それは、四輪バギーの後ろを、馬達が一列になって走っていく光景だった(ん?ひとり遅れ気味な子が…)。
あの猛烈な吹雪の中を、この馬達も耐え忍んでいたのだろうか…
そんなふうに思うと、来た時よりももっと強く、馬達への特別な想いが湧いてくるようだった。
過酷な天候を経て、晴れの日が嬉しくなるのは、きっと人間達だけではないのだろうな。



アークレイリを出てから二時間程で、ブリョンドゥオゥス(Blönduós)のN1に着いた。
行きに最も危険だと感じた峠を無事に越えることが出来て(シゲルさんの携帯灰皿はパンパンになっていたけれど…)、わたし達はどっとした安心感に包まれる。それと同時に、見事にお腹が鳴った。時刻は、もう13時前になっている。
N1に併設されているカフェ(Nesti)で、素っ気ないパニーニを注文し、シゲルさんと半分こにして食べた。…全く足りない。
店内のにぎわいを眺め、もそもそとパニーニを頬張る。
人々の営みを目にするのは、随分と久しぶりのように感じられた。



ブリョンドゥオゥスを出ると、なだらかな牧草地が続いて次第に雪も少なくなっていく。
気温はマイナス2〜3度くらいだろうか。
けれど、またすぐに別の問題はやってきた。
この辺りは海が近いために、北極海から吹き上げてくる風が容赦なく車体を揺らすのだった。
日本で暮らしていても、台風の勢力などに恐怖感を抱いたりするものだけど、この国ではそういったことが毎日のありふれた事柄なのだということを感じる。
また灰色になってしまった窓外の風景を眺め、「なんて悪天候で、なんと魅力的な国なんだ」と思った。



気が付くと、アザラシを描いた看板がひょこひょこと現われはじめる。
レイキャヴィークからアークレイリへ向かう時には気が付かなかったのだけれど、どうやらこの辺りはアザラシウォッチング(?)の名所らしい。
アザラシだけではなく、ホッキョクグマも時々やって来るのだというから、やっぱりここは極北の地なのだな。




以前も利用したボルガルネースのBónusで、食材の買い物をする。
その後、少しだけ街の中を歩いてみることにした。
ボルガルネースは、人口1700人ほどの小さな街。
小規模ではあるけれど、街から眺めるボルガルフィヨルズルの風景は圧巻だった。



ボルガルネース教会。



ホンマタカシさんの写真集に『Hyper Ballad―Icelandic Suburban Landscapes』という、アイスランド郊外のニュータウンを撮影したものがあるけれど、そこにはどんな風景が写っているのかな…と思いを馳せる(その写真集を観たことがない…)。
人口1700人くらいって、みんな知り合いなのかな…とか。
時刻は、夕暮れ時。駐車場のような場所で、小学生の男の子2〜3人がサッカーボールを追いかけていた。寒空の下なのに、超薄着…。日本の子供とあんまり変わらないのだな。。。



ボルガルネースを出て海底トンネルを抜けると、レイキャヴィークはすぐそこだ。
けれど、強風に加えて、大粒の雨が降り始めていた。
今日の宿はレイキャヴィークから南に50km下った、セールフォス(Selfoss)という川沿いの街に予約している。
大雨の中を抜け、レイキャヴィーク郊外のハイウェイを通り過ぎ、セールフォスへと向かう途中、シゲルさんもわたしも南まで下って来たからか、すっかりと安心し切っていた。もう北部のような峠越えはないはずだと。
けれど、それは間違いだった。
レイキャヴィークを過ぎると、すぐに霧深い道となり、峠が現われ、吹雪が起きる。そして、あっという間に視界がゼロになってしまった。
まさか南に下って来てからもホワイトアウトに合うとは思っていなかったので、わたし達は一気に嫌な汗をかく。
今回は前を行く車が一台もいなかったので、どこが道なのかもわからなかった。
必死でハンドルを握るシゲルさんの横で、わたしは情けないけれど力強く目を瞑る。子供の頃によくしていた、目を瞑れば怖いものが去ってくれる…というおまじないのように。
セールフォスに着いたのは、夜だった。
ふたり共どっとした疲れを抱えて、宿のベッドに倒れ込む。
長い長い一日だった。
シゲルさんの体力を気にかけながら、わたしは部屋に備え付けられていた小さなキッチンでパスタを茹でる。
一日の終わり、日本でもアイスランドでも、わたしの居場所は台所だった。